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如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

ウィキペディアを敬遠する理由

 前にやっていたブログでも書いたような内容。
 仕事をする上で、もはやインターネットなしでの業務遂行は想像できない。すごーーくお世話になっている。しかし、一方でいくつか自分に課しているルールというものがある。そのうちの1つは、仕事ではウィキペディアを使わないということだ。
 理由は実に簡単で、内容を保証する担保が低い情報ソースだということだ。
 いまさらウィキペディアについて説明する必要はないと思うが、不特定多数でブラッシュアップしていくという理想やよし。しかし、それが厳密なシステムとして確立できているかというと心許ない。
 一般的にウィキペディアでは、内容に間違いがあれば、それに気がついた人が直すことで正確な内容を保とうという仕組みになっている。面白い発想だとは思う。
 しかし、問題なのは訂正するという行動について、何の担保もないということだ。
 例えばある項目について間違った記述があったとしても、その誤りに気がつく人がその記述までたどり着くかどうかは分からない。また、仮にその記述にたどり着いたとしても、誤記を見過ごしてしまうかもしれない。そして、誤記を発見したからといって、その人が訂正をしてくれるという保証も実はまったくもってない。ご丁寧に間違いを直してくれればいいが、ややこしい記法も必要だし、対価のない作業にどれだけ善意を持って対応してくれるか分からない。おそらくほとんどのケースはブラウザの「戻る」を押すだけなのではないかと勘ぐっている。あとは些末なことだが、編集合戦や「出典厨」の存在がある情報ソースは不安定すぎる。
 仕事でウィキペディアを使いたくなったときは、面倒でも辞書を引いたり、本棚をあさったりと印刷されたソースを頼るようにしている。だいたいはそれで用が足りるし、印刷物を取り込んだ便利な電子辞書の存在だってある。
 面倒なことをするのも、印刷されたソースについては、少なくとも対価をともなった編集や校閲といった作業を通過しているからだ。対価をともなった作業とは、責任を背負った作業だということだ。対価すなわち責任のある作業と善意の作業とは、実は内容に大きな差があると思う。善意には生活や信用はそれほどかかっていない。
 また、印刷されたソースについては出版者や著者など責任者がはっきりしている。もし内容に誤りがあり、何かしらの責任が生じた場合は責任を求める相手がいる。殴り込みができる対象がいるわけだ。しないけど。しかし、ウィキペディアについてはそれが極めてあいまい、というかいない。誰も責任を取ってくれないのだ。これは重要なところで、へたをするとソースロンダリングに使われてしまう可能性もある。
 確かに、不特定多数の集合知としてのウィキペディアという試みは面白いし評価はできる。すばらしい内容を兼ね備えている記事が多くあるのも事実。しかし、正確さと厳密さが求められている仕事をする必要があるならば、情報ソースにはこだわらないといけない。そんな立場にいると、どうしても重箱の隅をつつくようなことを考えなければいけないのも事実。もちろん、仕事以外ではそこまで神経質になる必要はないし、実際に使っている。
 というわけで、ウィキペディアは敬遠せざるを得ない対象の1つ。まあ、周辺を見渡すと思いっきり不安になる光景もある。あんた、書類にウィキペディアを丸写しって…。

Jimmy Wales' Wikipedia Appeal

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