如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

森鴎外「山椒大夫・高瀬舟」(岩波文庫)

 全6篇が収めされているいわば短編集だが、やはり一番心を動かされたのは表題にある2篇だろうか。短い作品ながらも、心を動かされる。むしろ、短いからこそ、徹底して無駄を削ぎ落した文章の持つ鋭さが際立つ。

 短い作品であり、読者が得られる情報も必然的に少なくなるが、そこはさすが文豪。どれも読んでいて情景や登場人物の様子がひしひしと伝わってくる。

 決して荒削りではなく、というか短編なので荒削りなんてやりようがないのだが、どの段落も文も文節も単語も、どれも綿密な構造体の1つとしての役割をきちんと備えているのがわかる。まったく無駄がない。細かいレンガを積み重ねて複雑な構造の実現させた建造物のようだ。

 「山椒大夫」を読み終えたあと数日間、ずっと「なぜこんなに感動したのだろう」と考えていた。人買いにさらわれ、離れ離れになった親子。姉を自死で失いながらも、国守に出世した弟の厨子王が、鳥追いをしていた母と再会を果たした最後のシーンは、たった数行でしかない。そんなラストシーンでありながら、読後はしばらく打ちのめされたように茫然自失とするこの余韻は何なのか、と。

 おそらく、このラストシーンに至るまでのストーリーを形作っているそれぞれの文章が、先ほど書いたようにまったく無駄の無い要素で構成されており、ラストシーンの数行をがっちり支えているからだと思う。すべての単語や文節がラストシーンの数行の方向を指しており、すべての単語や文節がラストシーンを支えている。読み進めていくうちに、知らないうちに読者はその流れに乗せられ、いい意味でまんまと感動させられる。なんとも押し付けがましさのない感動を与えてくれる。

 小説で感動をさせるというか、人を惹きつけるというのはかくのことかと実感する。感動とは結果的に得られるもので、あえてほかから与えられるものではないと思っている。とりあえず人が死んでみたりする、昨今の映画やテレビにある感動は、手段と目的を誤っている。ラストシーンで泣かすのではなく、ラストシーン意外の要素で気持ちを高めて、ラストシーンでスイッチを入れているに過ぎない。