如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

「わかりやすさ」の落とし穴

 人間はどうしても楽をしてしまう生き物でありまして、「わかりやすさ」というものを求めてしまいます。たとえば、長々とした文章を読むよりかは、短くまとめられた方がいい。100ページの書類を読むのであれば、1枚にまとめられた要約を読むほうがいい。

 複雑な事象を簡単な形に直して伝達するという作業は、知性を備えた人間ならではの行為と言えますし、わかりやすくするという作業の積み重ねの上に今の文明があると言っても過言ではないでしょう。とはいえ、考えるという作業は実はややこしい。それゆえに安易にわかりやすさを求めてしまうと、意外な落とし穴にはまってしまうのではないかと思うのです。

 わかりやすく説明するという行為は、物事の主要部分を必要最低限だけ伝えるということです。つまり、簡略化のためにそぎ落とした部分があるわけです。このそぎ落とした部分ですが、これは不必要な部分かというとそうとも言えないのではないでしょうか。いや、説明のためにそぎ落としたのであって、重要度は低いかもしれませんが、全体を成り立たせるための必要な要素であることには間違いありません。

 それこそ「わかりやすい」例を挙げるならば、新聞記事があります。新聞記事はいわゆる5W1Hの原則に則って、可能な限り記者の主観を取り除いた上で必要最低限の情報をコンパクトにまとめた読み物であります。しかし、その記事を書くに当たり、そぎ落とされた情報が無数にあるであろうということは間違いないでしょう。限られた分量ではすべての情報を書ききれないからです。

 では、そのそぎ落とされた情報は無意味かというと、一概には言えないのではないでしょうか。新聞記者と読者の感性や立場が一致するとは思えませんし、そもそも新聞記事の中身は、言うならば「最大公約数」を狙って書かれているわけです。もしかすると、新聞記者は「必要なし」と判断しても、ある読者にとっては「必要」という情報がそぎ落とされている可能性も高いわけです。

 誰もがインターネットの世界につながることができて、誰もが手軽にさまざまな情報を手に入れることができるようになった今、「わかりやすさ」を求める風潮が特に顕著になっているように思えてなりません。「わかりやすい」情報をたくさん集めることで、手軽に知識を蓄えた気分になっていないでしょうか。

 「わかりやすい」情報をたくさん集めるという行為をすべて否定するつもりはありません。しかし、ひょっとすると「わかりやすい」情報を集めてその山の上にいると、「いろいろなことが何だかわかったつもり」になってしまうのではないでしょうか。その状態は本質的にあるべき姿でしょうか。

 「わかりやすさ」はとても便利です。われわれにとって、さまざまな事象の理解を深めるには必要です。しかし、「わかりやすさ」は決して完全ではないということを、どこか頭のかたすみに置いておくべきでしょう。その上で理解を深めるきっかけとして活用していきたいところです。

 まあどうでもいいけどな。