如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

批判は意識して冷静に受け止めないと、建設的議論につながらない

 理屈で議論するというのは分かっていても難しい。相手に反論されるとちょっと「カチン」ときてしまう。なまじ相手の言ってきたことが的をバシッと射抜いていたりと、反論できない内容ならばなおさらだ。

 とはいえ、そこで感情的になってしまうと元も子もない。感情的になって「ばーかばーか」みたいな流れになると、それは議論ではなくただのケンカにすぎない。かといってスルーすると議論にならない。

 この裏には、持論を否定・批判されると、自分の人格までもが否定されているかのように思ってしまうことに原因がある。ここでは持論と人格は別であることを忘れてはならない。

 でもどうしてカチンときちゃうんだよなあ。これはもう人情としかいいようがない。あるいは、ディベートといったきちんとした議論の方法論を学んでいないことに原因がある。日本人は特に。

 感情的になって議論を否定してしまうとどうなるか。自分の耳に聞こえがよい意見しか聞かなくなるわけで、思想的に固まってしまう。人間は議論をして解決点や真理を探していくべきであって、それを真っ向から否定してしまうものの考え方になってしまう。これは思想的に、もろい。竹のような柔軟性がなく、なにか反論のしようがない事実や批判を突きつけられた場合、簡単に折れてしまう。特にネット上では自説を絶対に曲げることなく、反論する人を無視したり感情的な文句で返すだけ、あるいは屁理屈で押し通したりと建設的な議論につながらない人が多く見られるような気がする。

 ということもあり、議論の姿勢には柔軟性が求められる。

 しかしながらこれが難しい。どうすればいいかといえば、持論と人格は別であるということを強くアタマの中に植え付けて、常にそれを忘れないようにするしかない。

 一番やっかいなのは、無意識にこの考え方を放棄してしまうこと。自分に都合がいい意見しか取り入れないとなると、場合によっては誤った方向に暴走して、自分だけでなく他人を傷つけることになる。これは危ない。でも多い。

 カチンときたら一回深呼吸。「だがちょっと待って欲しい」と天声人語的なネタフレーズを心に唱えて、冷静に自分の意見をもう一度考え直し、反論するならすればいい。腑に落ちて自分に誤りがあるなら、素直に非を認めて自説を直せばいい。それは悪いことではない。悪いのは議論をただのケンカにしてしまうことだ。それだけは避けたい。