如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

安易な責任なすりつけばかり―佐村河内氏問題に思うこと

 作曲家とされていた佐村河内守氏が、作曲を別人に任せていた上に、聴覚障害についても疑われるというスキャンダルが発覚してしばらくたつ。今後、近いうちに本人が記者会見を開く意向を示しているということで、まだまだ騒動は続きそうだ。

 この件で面白いのは、みんなそろって「誰が悪いのか」という件で喧々諤々しているということだろうか。

 もちろん、一番悪いと言われて仕方ないのは佐村河内氏本人だろう。

 しかし、それに関連してレコード会社や放送局をはじめとしたメディア、さらには音楽評論家など、彼を持ち上げた人たちへの冷たい視線をみんな向けている。

 ネットではまた魔女狩りのように、彼を賞賛していた音楽評論家を探して〝私刑〟台に載せようとする動きもあって、なんとも危険な雰囲気ではある。

 実はそうやってレコード会社や放送局などメディア、音楽評論家を批判しようとしている人たちは、本当は自分の中の「騙された」という気持ちをただ他人のせいにしたいだけなのではないだろうか。そして、批判された側はこの件ではなかなか反論できない。そうやって自分の中の「騙された」という気持ちを静めることができる。自分が騙されたのは自分のせいではなく、真偽を見抜けなかったレコード会社やメディア、評論家が悪い、と。

 こういった動きは、本来追求されるべき問題をかすませてしまう。単純な構造で白黒つけられないものだ(ゴーストライター問題と聴覚障害の真偽問題はきちんと分けて考えないといけない)。安易な犯人捜しは、真実を見えなくさせる。