如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

五輪エンブレム問題をめぐる議論の「話のかみ合わなさ」について

 例の五輪エンブレム騒動もだいぶ下火になったようで、というかみんな飽きてしまったようだ。

 振り返ってみるとまあなんというか、マスコミもネット界隈も怒濤のごとく佐野研二郎氏を叩くだけ叩いていてなんだか最早壮観な風景だった。

 個人的な考えを言うと、五輪エンブレムに関しては多分いわゆる「パクリ」はしていなかったんだろうと思う。きっとオリジナルだったんだろう。結果的に似てる先例があったのと、それを発見できなかった組織委員会と審査委員会が稚拙だったのだと考えている。また、募集や審査があまりにも内輪すぎた。その構図が結果として、「パクリではない」という主張を覆すことができなかった。とはいえ、サントリーのトートバッグやこれまでのデザイン事例で指摘されている類似は、完全にクロだと思う。それだけに、弁護はできないしするつもりもない。

 これに対して、デザイン業界や一部のタレントから佐野氏を擁護する主張があった。いくつかはきちんと当を得ていたと思う。しかし、ネットあたりからはその擁護にも批判がぶつけられた。

 そりゃそうだ。これって完全に議論の内容がかみ合ってなかったんだもん。

 一般の我々が今回の騒動で批判していたのは、本質的にはパクリかパクリでないかということではなかったんだと思う。批判していたのは、内々の仲間同士で仕事を回しあうかのようなデザイン業界の異常ともいえる業界体質があり、そのサイクルの中で、仲間同士でわいわいきゃあきゃあやりながら五輪エンブレムを決めてしまったという、業界への嫉妬や懐疑だったのではないか。そりゃ審査員が仲間だったりとか、募集段階からデザイナーを絞るようなことをしてれば出来レースとかいろいろ疑われるし、疑われるようなことを実際やってきていることが判明している。それに対してみんな怒っていたのではないのか。

 そんな批判に対して、デザイナー業界などから出された反論はそれに答える内容ではなかった。あくまで「デザイン論」としての批判だった。業界構図を引き合いにだしての反論はなかったんじゃないかと思う。デザイン論で反論すればそりゃきちんと佐野氏はデザインをしたのだろう。しかし、批判対象はデザインそのものでなく、広告代理店などなどを巻き込んだ悪しき業界体質だったわけだ。

 そりゃ話がかみ合わないよ、と。

 今回の騒動で感じたのは、やっぱり大きなお金が動くってところにはいろいろ宿痾というかなんというか、いろいろあるんすねーってこと。

 そして、「デザイン」っていったい誰のものなんだろうね、ということ。作る人のものなのか、使う人のものなのか、見る人のものなのか。わかんないね、こりゃ。

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