如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

釜ゆでの時代に生きる

 たまには自分の身辺の話から書き始めよう。

 よくダメな組織やその中の人間を評論するときに「ゆで蛙」という表現を使う。自分が働いている組織がまさにそうで、社会の変革にまったく合わせることなく、会社のえらいおじいちゃんたちが昔の成功体験だけで経営を進めた結果、もうけが出せる会社でなくなってしまい、今になってカネがなくなり、ヒトやモノなど組織を活性化させるための投資ができずに八方ふさがりになっている。まさに知らないうちに自分のいた井の中があっという間に煮えたぎってゆで上がって死を迎えようとしている。おじいちゃんたちはすでに獲得した栄光と富を両手に抱えて、あとは寿命が尽きるのを待つのみ。勝ち逃げである。もちろん、責任なんかとりはしない。

 俯瞰してみると、日本という国がそういうふうになっているのかなと思わざるを得ない。若者ばかりが虐げられ、高齢者層は逃げ切りができる。最近は車で子どもをはねるまでの徹底した加虐ぶり。なかなかの地獄絵図。世も末である。

 さてさて、どうすればこの沸騰する井の中からわれわれは生還できるのだろうか。ゆで上がるのは過去の栄光と地位に安住していた高齢者の皆さま方だけでいいはずなのだがそうもいかない。それに自分より若い人たちに釜ゆで地獄を味あわせるのは忍びない。絶対に避けなければいけない。

 じゃあどうすればいいか。ネット上ではそんな井の中からさっさと逃げ出して、起業するなり海外へ出るなりすればいいという論が飛び交っている。確かにそれは正解だろう。しかし、釜ゆで状態の人間の全員がそれができる能力や立場にあるわけではない。社会的に釜ゆでで耐えなければならない立場にいる人がほとんどのはずだ。アッパー系のネット論客はそれを「自己責任」と呼び、あざける。まあまあそれも正解かもしれない。

 では活路があるのかというとそれはない。長い歴史を鑑みれば、どの時代でも社会的に多くの犠牲者が出ているものだ。そういった死骸の山に次の新しい社会ができあがっていく。

 短期的にみて、日本はもう死屍累々とした犠牲者の山ができあがる道を避けて通れない時期に来ている。「ポイント・オブ・ノーリターン」はとっくに過ぎてしまった。日本という国は一時的な死、あるいは長い冬は避けられない。

 となれば諦めるしかないのか。個人的にはそう思っている。今さらなにをやっても無駄である。財力や才能がある人ははやく国外に逃げた方がいい。日本においてはトリクルダウンなんか存在しない。下品な金持ちが下々のためにカネを使うようなノブレス・オブリージュを兼ね備えたやつは日本にはいない。搾取するだけ搾取するのが日本の金持ちだ。政治家だって果たして期待できるだろうか。与党も野党もクズだ。

 ではどうすればいいのだろう。答えはない。

 われわれは目の前にある仕事を淡々と済ませて、安い給料で細々と暮らす以外に道は残されていない。まずは明るい幻想なんですべて捨てて、現実主義で生きていくしかないのだ。すべての幻想や希望を捨てることで、本当に現実的に進むべく道が見えてくる。生ぬるい楽観主義なぞ不要どころか害悪でしかない。感情を捨てて前進するしか道が残されていない。

 ならばあとは革命しかないか。たぶん、そうだと思う。革命、あるいは革命的な出来事がないと日本っていう国は変わらない。「31歳フリーター。希望は、戦争。」ってフレーズがあった。あれは正解だと思う。今こそ戦争、あるいはそれに類する何かが日本には必要なはずだ。クズな日本人をたたき直すには壊滅的、革命的な「何か」がなければいけない。ちまちま論争なんてしているヒマや余裕などないのだ。それが今の日本。

 ……なんてことを考えつつ、実に平和的にのそのそと生活しているのが自分の今なのだが、心に秘める革命思想はずっと温めている。腐りきった日本の社会、ゆで釜をひっくり返すにはショック療法しか残っていない。日本はもうその段階まで来ているということをみんなきちんと実感すべきなのだ。すでに現代の日本社会は多くの血と死者をもたらしてきた。平成は闇の時代だった。令和はきっと、革命の時代なのだ。