如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

表現力の貧しい人が多くて残念だよな、という話

 世の中には、他の人にない貴重な体験をしているというのに、持っている表現力が低すぎてこちらにそれが全く伝わってこないという、残念な人が多い。SNSだとかなんだが浸透して、誰もが文字を書くようになっただけに、表現力の貧しい人間の多さが際だつ。

 例えばだ、世界各地を旅していたりするタイプの人がいる。ひょんなことでそういう人をネット上で発見することがある。自由であり、勇気があり、なかなかできない得難い行動である。確かに尊敬に値する。が、その旅の最中の出来事などなどをブログやSNSでまとめていたりするのだが、気になる点が一つある。紡ぎ出す文章が総じて貧弱なのだ。

 いい景色を見たら「きれいだった」。おいしいものを食べたら「おいしかった」。何か得難い体験をしたら「うれしかった」。それで終わりなのだ。正直、読んでいるこちらとしては「それだけ?」と思う。そして、残念に思う。言を尽くして、その小学生の作文並の表現しか出てこないのか。もったいない。せっかく我々のような人間には体験できない経験をしているのに、すごく小学生並。もったいない。

 しかも、そんな短く中身のない単文を書いて、数行改行してまた短い中身のない単文を書くという、少ない労力で他人の労力を削ぐという馬鹿がお得意の「アメブロ書法」がほとんどだ。実にもったいない。それで文章を書いたつもりなのか。おめでたい。

 「きれいだった」のであれば、なぜきれいだったのか。「おいしかった」のならば、なぜおいしかったのか。「うれしかった」のならばなぜうれしかったのか。そこへの言及がない。そこまで頭が回らないのだろうか。あるいはその程度の貧しい感受性なのか。そして、その程度の表現でその感動が相手に伝わると思っている、おめでたい頭脳。残念である。

 海外旅行、特にバックパッカーといえば、香港から欧州への旅を描いた旅行記沢木耕太郎深夜特急」という名作がある。あれと比べては沢木氏に失礼だが、ネットで旅記録をしている面々の文章レベルの低さは月とスッポン、いや太陽と微生物レベルに距離が離れすぎている。

 悪くいうつもりはないのだが、実にもったいないのだな、これは。我々にはできない貴重な経験をしているのに、それがぜんぜん伝わってこない。それくらい文章能力が壊滅的に低い人ばかりなのだ。まあ別にいまさら何かをして文章力を磨けという説教をするつもりは毛頭ない。ただ一つ、もったいないよとしか言いようがない。

 とはいえ、表現力を磨くことをさぼってはいけない。人と違った経験をしていれば、表現力が貧弱でも受け止める人が補ってくれるとか、そういった甘えた考えはよろしくない。伝えるためには、伝える力を磨き続けないといけない。