如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

マスコミ論の難しさと複雑さと心細さと

 マスコミが不要かどうかそういう議論については、論点の切り分けをしないといけない。

 まず、ジャーナリズム論と新聞・テレビ・雑誌それぞれの企業経営の観点からの経営論。これを混同している議論が多い。ジャーナリズム論を語っていたと思うと、新聞社の経営がどうのこうの。あるいは、放送局経営を取り上げていたかと思うと、結論がジャーナリズム論での提起で終わるとか。話がかみ合っていない。そりゃそうだ、表裏の関係でありながら、別次元の話だからだ。

 ジャーナリズム論の中でも、議論は分裂する。民主主義の根幹を担う役割という大義名分を源流とする、そもそもの在り方を問う議論もあれば、ねつ造がどうのこうのとか偏向報道がどうのこうのという枝葉末節を取り上げる議論もある。どれも正しいといえば正しい。

 企業経営論でも、テレビ、新聞、雑誌、ネットメディア、ジャーナリズムのカテゴリでもそれぞれ業態が違うだけに十把一絡げにできない。「大マスコミガー」では問題点が見えない。というか、それぞれ切り分けて論じるのが面倒くさいから見ようとせずにまとめて「ガー」と言っているように見える。

 さらに細かく言えば、テレビだってNHKがあるかと思えば民放があり、さらに在京キー局と地方局とは立場が違う。衛星放送だってあるし、ラジオだってある。新聞だって、朝日毎日読売みたいな全国紙があれば、地方紙だってある。業界紙だって忘れてはならない。雑誌の千差万別ぶりは説明不要だろう。ネットメディアだって堅実なところもあれば、コピペ上等のクソメディアだってある。

 マスコミに関する議論をする上で、課題と論点の抽出は難しい。逆にいうと、それだけ批判派も擁護派もそれぞれ恣意的になってしまうということだ。

 分かりやすい議論に流されないようにも、俯瞰でものを見るように心掛けたいところだ。分かりやすい議論は分かりやすいだけに、いろいろとそぎ落とした要素が多かったり、切り口の断面が一面でしかないことが多かったりする。

すべての新聞は「偏って」いる  ホンネと数字のメディア論

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