如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

「文章をシンプルに」に騙されてはいけない

 よくネット上で、よく読まれる文章の書き方みたいなのがあるけど、そこではだいたい「文章をシンプルに」とかって書いている。そこには分かりやすさとか読みやすさとか理由が挙げられて、たくさんの人にも読んでもらえるってあるけど、そもそもなんでそういうふうにシンプルに書かなければ読んでもらえないような読解力の低い連中の基準にこちらが合わせないといけないのか分からない。

 そもそもだ、文章がうまい人はシンプルに書くっていうけど、その人の思想や知識のレベルや表現能力が高いがゆえに、事象をシンプルに表現できて万人でも読みやすい文章に仕立て上げることができるだけにすぎない。そのため、シンプルに書けばうまいとか読みやすいということにはならない。順序が変なのだ。シンプルに書こうがそうでなかかろうが、文章の出来は書き手の頭の中のレベル次第のはず。そこを勘違いすると、シンプルなだけで内容がゼロなバカ丸出し文章を書いて悦に入る書き手が大量生産されることになる。そしてウェブの世界にまたゴミが増える。

 誰が言ったか忘れたが、日本人は文字は読めるが文章が読めない人が多いという。それは8割くらいいるという。多いなおい。シンプルな文章に慣れると、行間を読むとか、文脈を読むとか、そういった重要な知的能力が極度に落ちる。文字は読めても文章が読めないのは重大なコミュニケーション障害だと思う。あえてシンプルな文章があふれるウェブ空間に反旗を翻したい。

 まあどうでもいいけど。

近未来、四字熟語だけで会話する時代が来る

 推理小説家の西村京太郎氏を追悼する記事で、あの西村氏ですら、近年は若者向けに作品の文章を短くするといった執筆スタイルの模索を求められていたことを知る。びっしりと書き込まれた小説はもはや受け付けられない世間になっていると共に、大物小説家ですら短文化を強いられていたとは。読みやすさは大切だが、微妙に引っかかるものがあった。いずれにせよ、合掌。

 そういえば一時期、「ブログの書き方」なるコンテンツが隆盛を極めた際、一文を短くだとか、改行を増やすなどといったハック(笑)が流行っていた記憶がある。確かに読みやすさを追い求めると、アメブロでよくあるようなクソ文体ばかりになってしまう。まあまあ、あのアメブロ界隈は、そもそも文章を書く作法がなっていないレベルの人間が集まる空間なのでそれはいいとする。

 さておき。そういえばツイッターも140文字という制限が課せられた戦場であるが、あれが普通になりすぎてそれ以上の長さの文章を読んでもらえない、受け付けてもらえないようになっているらしい。だから、140文字ですべてを伝えるコピーライター的な素養が求められている時代に入っているのかもしれない。わかりやすさや読みやすさを追求するのはいいとして、短くまとめるとなると、その削られた分だけ情報が落ちるという点は気を付けなければいけない。キャッチーな文句だけで構成された文は、感情に直接訴えることを狙っているといっても過言ではないだろう。そして、わかりやすさや読みやすさを求める読み手は、気を付けて文を読み解く手間から解放される。手間と書いたが、これを手間と感じるようであればドツボに落ちる読み手であろう。コピーライター的な人間が狙うのはそこだ。

 YouTubeといった界隈でも、さまざまなことをレクチャーしてくれる動画が多くなっているようだが、10分そこいらですべてを伝えようとする動画につられるようにならないよう、気を付けなければいけない。わかりやすさは、重要なことが削られているかもしれないという裏面もあるからだ。なまじ、それで儲けている輩が多いからたちが悪い。

 わかりやすさや読みやすさは、感情に直接訴えるだけに、扇動的であることもある。他愛のない内容であればいいが、かの国で繰り広げられている戦争のような局面だったらどうだろうか。わかりやすさと読みやすさの隙を突かれる人も多いのではないか。

 おそらく、今後も耳目を集めるためだけに、短い文章が求められるだろう。あと、短い動画も。どんどんと扇動的に短くなっていく日本の文章は、そのうち四字熟語にまで縮小していくのではないか。そして、いま自分が書いているような長い文章は決して読まれることがなくなるだろう。わかりやすくて読みやすい文章は、自分で考えなくても読める点が利点だ。人民の読解力はどんどんと退化していくだろう。その先にはどんな世界が待ち受けているか。

 まあ、この文章も読まれることはないのだろうが。

要するに人間はいつの時代も馬鹿だよなっていう

 歴史をちゃんと勉強すれば分かることではあるものの、人間は成熟しないでいつまでも馬鹿なことを繰り返すんだなということを、感じざるを得ないようなニュースが多い。まあまあ自分も年を取ったということだろう。

 何が先進的で何が保守的、あるいは中世的なのか、よく考えればその時点での立ち位置を考えれば前にも後ろにもなる。同時代に生きる人間が同時代を判断することはできなくて、後世の人たちにすべてを委ねないといけないのだなとも感じる。