如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

近未来、四字熟語だけで会話する時代が来る

 推理小説家の西村京太郎氏を追悼する記事で、あの西村氏ですら、近年は若者向けに作品の文章を短くするといった執筆スタイルの模索を求められていたことを知る。びっしりと書き込まれた小説はもはや受け付けられない世間になっていると共に、大物小説家ですら短文化を強いられていたとは。読みやすさは大切だが、微妙に引っかかるものがあった。いずれにせよ、合掌。

 そういえば一時期、「ブログの書き方」なるコンテンツが隆盛を極めた際、一文を短くだとか、改行を増やすなどといったハック(笑)が流行っていた記憶がある。確かに読みやすさを追い求めると、アメブロでよくあるようなクソ文体ばかりになってしまう。まあまあ、あのアメブロ界隈は、そもそも文章を書く作法がなっていないレベルの人間が集まる空間なのでそれはいいとする。

 さておき。そういえばツイッターも140文字という制限が課せられた戦場であるが、あれが普通になりすぎてそれ以上の長さの文章を読んでもらえない、受け付けてもらえないようになっているらしい。だから、140文字ですべてを伝えるコピーライター的な素養が求められている時代に入っているのかもしれない。わかりやすさや読みやすさを追求するのはいいとして、短くまとめるとなると、その削られた分だけ情報が落ちるという点は気を付けなければいけない。キャッチーな文句だけで構成された文は、感情に直接訴えることを狙っているといっても過言ではないだろう。そして、わかりやすさや読みやすさを求める読み手は、気を付けて文を読み解く手間から解放される。手間と書いたが、これを手間と感じるようであればドツボに落ちる読み手であろう。コピーライター的な人間が狙うのはそこだ。

 YouTubeといった界隈でも、さまざまなことをレクチャーしてくれる動画が多くなっているようだが、10分そこいらですべてを伝えようとする動画につられるようにならないよう、気を付けなければいけない。わかりやすさは、重要なことが削られているかもしれないという裏面もあるからだ。なまじ、それで儲けている輩が多いからたちが悪い。

 わかりやすさや読みやすさは、感情に直接訴えるだけに、扇動的であることもある。他愛のない内容であればいいが、かの国で繰り広げられている戦争のような局面だったらどうだろうか。わかりやすさと読みやすさの隙を突かれる人も多いのではないか。

 おそらく、今後も耳目を集めるためだけに、短い文章が求められるだろう。あと、短い動画も。どんどんと扇動的に短くなっていく日本の文章は、そのうち四字熟語にまで縮小していくのではないか。そして、いま自分が書いているような長い文章は決して読まれることがなくなるだろう。わかりやすくて読みやすい文章は、自分で考えなくても読める点が利点だ。人民の読解力はどんどんと退化していくだろう。その先にはどんな世界が待ち受けているか。

 まあ、この文章も読まれることはないのだろうが。