如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

日本の消費者はやっぱり馬鹿だろ、という話

 ふんわりとした違和感を覚えずにはいられない日々である。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190119-00111650/news.yahoo.co.jp

 ユニクロもそうだったけど、経営者として祭り上げられている表の部分もあればこういった下品な裏も出てくるのは当たり前であり、そもそもちょっと考えれば、安さの裏にはこういった犠牲になっている人がたくさんいることは分かるはずなのだ。しかし、多くの割合で占められる馬鹿は「安いから」「便利だから」という下劣な理由だけで、こういった血の通っていない経営者にカネを流していく。しまいには、ツイッターでお金を恵んでやるといえば、次から次へとわたしもわたしもと群がっていく。世も末だ。

 自分たちが消費している物品にせよサービスにせよ、その対価というものの源泉について思いをはせることを忘れるな、とまではいかないが、あまりにも目先の損得だけで考える短絡的な馬鹿思考のせいで、この社会はおかしくなっていく。何が情報化だ、ITだと。頭の悪い貧乏人がスマホ片手におだてられて、払わなくていいカネを獣に貢ぎ続けている。何だこの構造は。

 資本主義は馬鹿がいないと動かないシステムなのだろうか。本物の資本主義とは一体なんなのだろうか。いや、そもそもそんなものあり得るのだろうか。

短くて分かりやすい文章が求められる社会って危ないと思うよ、という話

 長い文章があまり読まれない社会になってきているらしい。文章も分かりやすさが求められているらしい。

 そもそも長い文章を読めない人というのは、いつの世もある一定数は存在していたはずなのだが、スマホでいろいろといじって文章に触れる趨勢の中、それこそツイッターの1回分ツイート程度でしか読者に響かないというのはあるのだろう。それもそうだ。ネットが無駄にすみずみまで普及して、1人あたりの接する文字情報がとてつもなく多くなっている。そりゃあ、短い文章の方がいいという理屈もあるだろう。

 とはいえ、超絶技巧がなければ、短い文章で伝えられる情報量はどうしても少なくなる。それに、短い文章で物事を伝えるにはわかりやすさが求められる。安直な短文化やわかりやすさの追求は果たしていいことなのだろうか。

 分かりやすい文章になれると、分かりやすい文章しか求めなくなる。短い文章で情報摂取を済ませる癖がつくと、長い文章での情報摂取ができなくなる。読解力の低下につながると思う。

 短く分かりやすい文章は、頭の中の思考回路の短絡化にもつながるのではないかと感じている。短くなければ読まない。分かりやすくなければ理解しようとしない。いずれも「努力しない」。

 そういう人が増えれば、価値判断基準がどんどんと下がっていく。短くて分かりやすいフレーズで人々が動くようになる。そして、短くて分かりやすいフレーズに人々を動かそうとする奴らが出てくる。単純化の波は、世間の情報弾力性を過敏にさせてしまうのではないか。

 物事はすべて、単純ではないはずだ。単純な物事こそ複雑な要素から表出した一片に過ぎない。短くて分かりやすい文章は、ともするとそこを感じる力を劣化させる。

 ある種の権力にとっては、理想的な流れなのかもしれないが。

「脱社畜」の人が何か言ってますよ

 「脱社畜」の人がなんか言ってますよ。

dennou-kurage.hatenablog.com

「脱社畜サロン」とかいう名前のオンラインサロンが炎上している。はじめに言っておくと、この炎上している脱社畜サロンとこのブログ(脱社畜ブログ)は何ら関係がない。

脱社畜サロンと脱社畜ブログは無関係です - 脱社畜ブログ

そこで、この炎上である。残念ながらこれで「脱社畜」という言葉は完全に「うさんくさいもの」になってしまったと思う。たまに取材を受けたり外部媒体で書いたりすることがあるのだが、今まで適当に使っていた「脱社畜ブロガー」という肩書きを今後も使ってよいかどうか悩む。このままでは恥ずかしくて使えない。

脱社畜サロンと脱社畜ブログは無関係です - 脱社畜ブログ

 もとからうさんくさかったでしょ。

 そもそも「社畜」という単語を使い始めた時点で、あきらかにあさっての方向へ意識高い系の人の注目を浴びようとしただろう。何をいまさらうさんくさいとか言っているのだろうか。「社畜」という単語を使った時点、選んだ時点でこの「脱社畜」の人もいわば「向こうの人」なのだ。