如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

コンテンツ盗用の先にあるインターネットの〝砂漠化〟

 DeNAのWELQ問題でも明らかになったように、いまやネット上で求められているのは、コンテンツの「質」ではなく「量」でしかなかった。いかにたくさんのキュレーション(笑)されたコンテンツを並べて、広告をたくさん見せるかという点にしか価値がない。残念なことだ。ネットは不毛地帯になってしまった。

 コンテンツの「量」を求めることに意味はあるのだろうか。あいつらのような悪徳企業が求めるような上がりを得るには、ライターがいちいち取材や研究をしてコンテンツをつくるスピードでは、「量」がまったく追いつかない。

 そこで出てきたのが「リライト」という名のパクリ改変行為であることは周知の通りだろう。この手の行為は、2ちゃんねるまとめが出てきたあたりから行われており、問題視されるものの放置されたままだった。盗人が儲かるという不思議な構図がここ10年くらいでできあがってしまっている。そこまでインターネットの世界は自由であっていいのだろうか。さすがにまずいとみんなが気がつき始めている。

 どうやら圧倒的にコンテンツが枯渇している。インターネットの世界は圧倒的にコンテンツが枯渇している。枯渇しているかもしれない。しかし、これはDeNAのような悪徳企業が広告収入を得て銭を儲けるという、不純な理由で考えた場合に「圧倒的に枯渇」している。多分、ネットをも超越した世界で考えるコンテンツそのものは枯渇していないはずなのだ。不純な眼で見ると「足りない」。

 コンテンツの供給不足が深刻化すれば、経済の減速からしてコンテンツの価格や価値は高まる。しかし、誰もそのコストを払おうとしない。やり始めたのは「引用」や「リライト」などというそれらしい言葉を隠れ蓑にした「盗用」でしかない。

 コンテンツにお金を払わない。その根底には何があるのだろうか。コンテンツは自然に発生するものではない。どこかで最初に創造した人がいるのだ。その人だって飯を食っている。その飯を買うカネが必要なのだ。ネットを見てるとぜんぶ(一応)タダで情報が見られるから、雑草のように自然にわいて出てくるように見えるが、当然そんなことはない。誰かがそれを作っている、書いている。

 それなのに、みんなコンテンツを盗用して小銭を儲けるというビジネスがなくならない。なんかネズミ講みたいだ。コンテンツ盗用のネズミ講。一番根っこのコンテンツを作る人にお金が回らないで、創作をやめてしまったら、みんな一斉に死滅する。元栓を閉められたら、みんな一斉に死んでいく。

 でもそうなって本当に砂漠と化したインターネットの世界も見てみたい。広大な砂漠と砂に還りつつある廃墟。人間の欲望を象徴とする風景でありぜひぜひ見てみたい。

砂漠化ってなんだろう (岩波ジュニア新書)

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