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如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

ホリエモンとかイケハヤ師とかその手の人が嫌われるのは彼らが「多様性」を認めてないからではないか、という話

memo

 何かこう、これまでの古い社会体制を批判することで人気を得ている人っているじゃないですか。ホリエモンとかイケハヤ師とかそういうタイプの人たち。最近では何か「レールに乗った生活がいやだ」とか何とかそんな事を言って燃えていた人がいたような。

 個人的にはそういう人たちってまあ面白いなと思いつつ、鼻につくというか、そういう「何か違う」感じに違和感を覚える人が多くて、それが批判の的になっているんだろうなあと思う。

 彼らの考え方は、停滞する時代の常識を疑い、批判し、覆す視点や指摘をもたらしている。なるほどと思うものもなくはない。実際、完全に手詰まり感が全開の日本においては、そういった革新的な考え方は求められるだろうし、そういう主張ができる人材こそ求められると言えるだろう。

 だけど、彼らのような人を見ていると惜しいと感じるのだ。惜しい。実に惜しい。惜しいんだよ。

 なぜか。新しい主張をしているそういう人たちって、自分たちの考え方を相手に強要するだけで、そのほかの考え方を完全に認めない。「多様性」を認めろと主張している割に、自分の考え方から外れる「多様性」を認めていない。

 わがままなんですよな、要するに。

 ここでいう「多様性」の受容とは、自分とは違う考えを持つ人がいるということを認められること、ということ。これができてない人、多いような気がする。

 最初に持ち出したタイプの人たちって、どういうトラウマがあるのか知らないけど、自分と考え方が違う人を徹底的に批判して、見下して笑う。そんなにいじめられた記憶がトラウマになっているのかって思うくらい、マウントポジションを取りたがる。みんながみんな、彼らのような生き方なんてできないんだから現実はさ。現実見ないと。

 ちょっとでも社会でいろいろ経験すれば、本当に人間は多種多様であって、自分基準の杓子定規でとらえることが難しいくらい、千差万別、色とりどり
、種々雑多。

 彼らのような論客は、これまでの古い考え方を批判し、新しい生き方や考え方を提案している。それは「多様性」の要求ではないのか。

 しかしなぜか分かんないけど、そんな「多様性」を要求する、主張する彼らが、自分たちの考え方から外れた人たちをせせら笑う。そろってそういう態度をみんな取るのが面白い。

 「多様性」を求めているのに、自分たちはそれを認めていない。

 彼らと彼らの支持者たちは自分たちの価値観から外れた人たちの存在を認めない。見下し、自分たちが上にいることを誇る。

 みんながみんな「多様性」を認めずに、みんながみんな自分たちこそが上にいると思いたがる。マウントポジションを取り合って殴りあう。なんすかねこれ。

 どうあるべきなのか。正直分からない。

 でも、彼らが自分たちの求める「多様性」を自分たちがまずは認める、というところから始めないと理解は得られないだろう。煽って炎上なぞしている場合ではないのだ。日本の社会は様々な面で瓦解しつつある。新しい価値観をもって新しい社会を作っていかないといけない。そんな危急な時に煽りあってマウント取り合って殴り合いとかそんなことしてる場合ではないんだよな。

 いやぁ、惜しい。惜しい。