如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

ネットメディアも旧メディアも「書き手」にもっと育成投資をするべきだという話

 新聞や雑誌などの紙によるマスコミ媒体はそのうちなくなるだろうという話は、もはや耳にタコができるほどあちこちで聞かれる指摘だ。確かに統計的に見ても紙媒体のサーキュレーションはガタ落ちで、代わりにネットへとシフトしていっているのは巷間広く知られる通りだ。

 それはそれでしょうがないと思うし、紙の時代は終わったのだという主張もまあそうかもしれないなあと首肯するところもあったりなかったり。いずれにせよ、現在進行中のことであり断定的なことは言えないと思っている。

 ただ、紙が廃れてネットが伸張する流れの中で、ニーズが不変なのはライターという存在だろう。よく考えれば分かると思うけど、紙だろうがネット上であろうが、取材をして字を書くという人の存在は必要。逆に言うと良質なコンテンツ・記事を作れる人は紙だろうがネットだろうが関係なく活躍できるし、需要もあるというものだ。

 しかしながら、そんな人材を育成する投資が紙もネットもできているのだろうかという疑問がある。特に報道系はある種のきちんとしたトレーニングが必要となる。誰でも文字は書けるけれど、ただの作文を超えた記事を書けるかというと、それは全くの別問題だという認識がどれだけ多くの人にあるか。そこはきちんと考えた方がいい。

 ネット上をうろついていると、ニュースサイトを自認しておきながら、お粗末な記事を垂れ流しているサイトが多い。どことは言わないけれど。ネット上で記事をリリースすると、誰でも簡単に接触できるだけに、一度注目されるとシェアに次ぐシェアで爆発的に広がっていく。そこは紙メディアとの大きな違いだ。

 だがそこで、その影響力を考えておかないといけない。果たしてその記事が広がることによる影響力がどのような形で社会に作用していくか。もちろん良質な記事ならばいいが、センセーショナルに書き立てて、その上に内容で問題があれば話は別。誤った情報や、偏った話がどんどんと広がっていく。

 もし、そんな記事が誰かを致命的に傷つけてしまったら…。

 こういった問題を防ぐには、やはり書き手への投資が必要だろう。育成にどれだけの費用をかけることができるか。そして、その育成について、多くのニュースサイトの運営者たちがどれだけ留意しているか。もはや記事の受け手のメディアリテラシーの発達を待つのは遅すぎるくらいに、誰でもがネットで簡単に情報を得る時代になっている。受け手ではなく、発する側がなんとかしないとだめなはずだ。

 雰囲気からの感想だけど、書き手って簡単に育って、たくさんいて、誰でもなれて、人材がたやすく見つかるっていうような安易な考えが、ニュースサイトの運営者にあるんじゃないかなあと思っている。くどいようだが、作文は誰でも書ける。ただ、ある程度のクオリティを保てる書き手は少ない。育成も簡単ではないはずだ。

 ネット上の掲示板やツイッター、新聞社などのサイトからコンテンツを拾ってきて、適当につなぎ合わせて感想みたいなまとめをつける。それがニュースなのだろうか。それはただのまとめでしかない。しかし、それらが影響力を持つ時代になってきた。いいのだろうか。本当にいいのだろうか。

 新聞社や雑誌社は、媒体の不振から人材育成への費用を削らざるを得ない状況だ。そして、書き手の数や質は落ちていく。その間隙を縫うように、新興のネットメディアが台頭しているが、新聞社や雑誌社が担っていた人材育成を代わりに担うほどの矜持があるかどうか。大量に毎日流れていく無数の記事を見ると、あまり期待できないのかもしれない。

 誰もが放棄しつつある書き手の育成。気がついた時には誰も良質の記事を書けなくなっている。そんな時代が近々くるのかもしれない。それはしょうがないことなのだろうか。いや、たぶんとんでもない代償を払わなければならないほどの緊急事態になるトリガーになると思うのだが。