如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

正しい情報の集め方とはなんだろうか

 新聞や大衆向け雑誌、地上波テレビなどのいわゆるレガシーメディアについて「役割は終えた。見る/読む必要はない」と断言する人が多い。

 インターネットで即座にあらゆる情報が手に入るようになった現在、確かにその主張は一理あるといえるだろう。PCやスマホを通してWebサイトなどで情報を入手すれば大丈夫だという。既存メディアの記者の視点といういわばバイアスがかかった状態ではなく、ネット上でも企業や官庁の一次情報を手に入れることができたり、記者よりも抜群に詳しい専門家の意見を直接聞くことができたりと利点は多い。

 だがちょっと待って欲しい。(©朝日新聞

 果たして我々はそれだけ多くの多角的な情報に接する機会を得ることはできたが、それらの情報を処理する能力はあるのだろうか。

 ネット上に氾濫している情報を収集するだけでは意味が無い。それをいかに分析し、自分なりの結論を出せるかが問われる。たくさんの情報を集めても、そのブックマークの山は情報の山でしかない。何かそこから自分なりの指針を固めることができなければただの情報肥満でしかない。それは何の情報も得ていないのと大同小異ではないだろうか。情報を集めるだけで賢くなった錯覚に陥っていないか自省する必要があるのではないか。

 また、既存メディアは不必要であると主張する人は、ある分野の専門家であったり知的レベルの高い位置にいたりする。

 これはどういうことか。既存メディアに頼らなくても有力な情報を入手できるルートを持っていたり、それを知る手段を持っていたりするということだ。それなりの地位にいるということだ。

 こういう特殊な人たちの立ち位置を考えずに、一般的な場所に立つ我々が同じような安易に同じような行動に出ていいものだろうか。われわれは有力な情報にリーチできる手段を持っているだろうか。それは有名人のツイッターをフォローしたり、Facebookでお友達になったりすることではない。そもそも、ネット上には「本当に重要な情報」はそうそう流れないし、嘘情報が流れる可能性も非常に高い。

 つまり、情報入手経路をたくさん持つ人のマネを安易にしてはいけないということだろうと思う。安直なマネは自身の情報経路を少なくさせたり、極端に偏らせたりとリスクの方が大きい。

 もちろん、だからといって新聞を購読したり地上波テレビを見たりしなければならないと言うつもりは毛頭ない。

 重要なのは今の自分にとって本当に必要な情報とは何かという問いだろうと思う。自身の立ち位置を顧みて正しい情報源の取捨選択をすることが求められるのではないだろうか。そして何より、それらの情報を分析してきちんと自分自身の考えをまとめるという訓練もしなければならない。貧相な受け売りだけは避けるようにしたいところだ。