如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

「新聞再生 コミュニティからの挑戦」畑仲哲雄

 本文中にもあるが、今まで「新聞の危機」をテーマとする本の多くは、「新聞産業」が直面する問題を取り上げている。それに対し、この本はまず本来「新聞」という言葉が持つ意味をコミュニティでのアジェンダセッティングの中核と定義する。そして、地方紙という「周縁的な場所」での具体的なフィールドワーク3例の成果を通して、コミュニティを支えるメディアとしての新聞の在り方、新聞の原点とは何かを問い直している。産業論ではなく、あくまでメディア論として新聞を取り上げている点が面白い。

 具体例とは鹿児島県で45年の歴史を持ちながら経営破綻で2004年に休刊した「鹿児島新報」▽日刊紙として初めてブログを採用したコミュニティサイト「カナロコ」を05年からスタートさせた「神奈川新聞」▽県域紙のない滋賀県で05年、地元財界が中心となって発刊されたが半年で休刊に追い込まれた「みんなの滋賀新聞」−の3事例だ。

 鹿児島新報の事例では、紙面の6ページを地域の話題に割くという編集方針や、ほかの新聞社と違いさまざまな前歴を持つ「市民」を記者へと登用する特徴のほか、休刊後もOB有志がネット上で復刊の可能性を探っているという取り組みを紹介する。その中から、そもそも市民としての読者と編集スタッフの関係性について議論している。

 一般的な新聞は、取材記者はあくまで傍観者、あるいは客観する立場として取材対象と接する。しかし鹿児島新報では、記者採用枠を広げることで、市民が地方紙編集に直接参加するという関係性を維持していたと指摘する。本書では「消費者としての読者」ではなく「発言する/活動を支援してくれる/当事者としての読者」としている。読者はお客さんではなく、新聞製作の主体だということだ。

 神奈川新聞「カナロコ」の章では、ニュースサイトの記事にコメント・トラックバック機能を実装したほか、市民ライターが取材・執筆するコンテンツを掲載するという、日刊紙初の取り組みを紹介している。

 一連の取り組みを紹介する中で、著者はそのきっかけをマーケティングの視点ではなく、現場における記者の自問自答から始まった点を強調している。全国紙の攻勢を受ける同新聞社の記者が、スポット的にしか記事を書けない多忙な取材活動で感じる「不完全燃焼」という感情を発端に、カナロコを通して市民や読者へと大胆にアプローチする。大上段に構える記者特有の立場から、思い切って新聞社が市民と同じ視線へと下りるという行動を成し遂げたのだ。次のようなスタッフの発言から、メディア論の視点から重要な試みであることが分かる。

 新聞社というところはウラ・オモテが多い。性差別もあるし、記者の仕事も長時間労働だし、ふつうとはいえない。ふつうの暮らしをしていない人間に、何が書けるのかという思いがあった。外向きにいっていることと内側の実態が違う。(p.97)

 自由だとか、正義だとかを論じる前に、まず、じぶんがいま生きているコミュニティへの愛着をもつことが重要なのではないか。じぶんが暮らしている町の現実を直視し、よくしていくという気持ちのない人間に、自由をも持ったり権力を監視したりできるはずがない。(p.99)

 「みんなの滋賀新聞」は、旧来の新聞が持つ言論機関ではなく、経済人が主体となり県内情報インフラとして発刊された点が特徴的であるとする。

 また、地域記者制度の採用などで徹底的に地域に根ざした紙面作りを目指したほか、読者と交流するシンポジウムを企画していたことなどから、市民との情報共有手段としての社会基盤を目指していた点が、一般的な新聞とは大きく違うと指摘する。そして、それは今後の地方紙の在り方に大きなヒントを与えたとする。

 小林たちが考えた〈新聞〉が、議論の場を提供する新聞社、議論に参加する読者、議論に関する記事を書く記者という三者間の相互作用を包含していたことは明らかだ。(中略)そうした視点のなかに、ビジネスモデルの視座にはおさまりきらない新聞づくりのあり方が隠されていた。古くから「新聞は社会の公器」などといわれてきたが、新聞社が公共的であるためには、新聞紙面の体裁をなしている商品を配るだけでは足りない。新聞紙の販売は目的ではなく、手段にすぎないということだ。こうした本質論も『みな新』というプロジェクトが残してくれた遺産である。(p.157-158)

 最終章では、著者はまず「新聞」の定義そのものの重要性を示す。戸坂潤「新聞現象論」を援用して、新聞=新聞紙・新聞社ではなく、新聞=社会的機能そのものとする。そして、新聞再生のためには新聞を業界内だけの問題とすることなく、社会全体の問題として考え直さなければならないと指摘する。

 また、3事例を振り返り、次のように指摘する。

 彼ら彼女らの問題意識をまとめれば、地元の暮らしをよくしていこうとする意欲であり、高みから地元の人たちを見下ろすスタイルからの脱却であり、人々の言葉をつなぐ社会空間の創出である。(p.184)

 昨今、新聞業界の苦境が叫ばれてかまびすしいくらいなわけだが、その脱却のヒントが、読者すなわち市民と記者の距離が近い地方紙に隠れている点を指摘しているのは興味深い。失敗した事例の方が多かったが、特に最近多く指摘されている主流ジャーナリズムのエリート主義を否定し、隣人として市民に接することで新しい新聞の在り方を読み解こうとした取り組みに学ぶことは多い。

 本来は市民生活の中にあった新聞が、歴史的経緯や凝り固まりかけているエリート視点のジャーナリズムによって、完全に市民から乖離してしまっている。その姿はネット上で使われる「マスゴミ」という単語が如実に表現していると思う。新聞の在り方とは何なのか。市民はどのように新聞にアプローチするべきなのか。その理想的な関係への道筋を示してくれる内容だった。(再掲)