如何ともしがたい何か

便所の壁に殴り書き

タダで情報を求める貧乏人に社会が汚染される

 前に書いた記事でも触れたけど、貧乏人ほど身の程をわきまえずに偉そうなことを言ったり、バカ故に低い沸点のためつまらんクレームを付けたりするもの。貧乏人ほど、ルサンチマンを発散するかのようにマウントポジションを取りたがる。自分はクソムシレベルのくせに、だ。

 そんな貧乏人がうっぷんを晴らすとなれば、テレビのコンテンツがそういう低俗な内容になるのは自然な流れ。

 そもそも、情報はタダでは手に入らない。情報をつくる原価だけでなく、利潤を得ようと思えば広告モデルを回さなければいけない。視聴率を稼がなければならず、それはいかにより多くの貧乏人を釣るかという話になる。そのため、金をかけずに情報を得ようとする貧乏人に合わせれば、くだらない話題でマウントポジションを取れる(というか取れたと錯覚できる)という劣悪な内容になるのは自然の法則とでも言うべきだろう。

 そして、タダで情報が手に入ると勘違いした貧乏人が増殖したせいで、広告モデルに基づくシステムが壊れて低俗になっていく。象徴的なのが、紹介したツイートにもある昼間の地上波テレビなのだろう。貧乏人は数百円でお店の店員さんをいじめ、タダで見られるテレビで自分より下の人間を嘲笑して溜飲を下げる。実にディストピア。 

 まあまあ、これはテレビに限らず、ネットでも同じこと。低俗で憎悪をあおるワイドショー的なトレンドブログ(笑)やまとめブログ(笑)ほど、気が狂ったかのように広告がくっついている。貧乏人向けに販売されたスマホを手にした貧乏人が、金を払うことなく簡単に接触できるのは、そういった低俗なサイト。まんまと釣られて、広告を見る。ネットに流れる情報の低俗化のサイクルはこうやって増幅され、ウェブの世界が汚染されていくのだ。

 その一方、お金を持っている人はそういう汚染のサイクルに入らない。放送なり紙媒体なり、ネットなりでもきちんとお金を払う。

 これはお金持ちだからというわけでなく、きちんと対価を払わないときちんとした情報は手に入らないということを知っているからこその行為であって、お金持ちでなくとも、こういう感覚に人は身銭を切って情報にお金を支払うのだ。

 その消費行動には、貧乏人に特有の自分より立場が下の人間の上にまたがるマウントポジションを取るという、下劣な性根がない。生きるために必要な確実な情報を冷静に得ようという考えに基づく行動なのだ。そこがバカな貧乏人との違い。

 自分は何のために情報を得るという行為をしているのか。改めて冷静に考え直す必要があるだろう……と締めくくろうと思ったが、あまり他人のことは言えないのが実際のところ。

生きるための危機管理上、店員さんには優しく接した方がいい

https://www.myprivatecomedy.net/entry/2019/02/21/073000www.myprivatecomedy.net

 前も書いたことだけど、この記事でも書かれているように、店員に対して偉そうな態度をとるバカは損しかしない。同行者や周囲の人、そして店員さんなど360度方向に不愉快な空気をつくり出すという点で、損どころか害悪でしかない。

 まず、そんな偉そうでクズな対応を店員さんにしてまともなサービスを受けられるだろうか。

 考えてみてほしい。特に飲食店なんていわゆる「バカッター問題」で、とんでもない従業員がそこそこいるという現実がある。飲食店なんて客席から厨房が見えないところがほとんどだ。もし、偉そうでクズな対応をする客に対して、バカッターな従業員はどういう対応で抵抗してくるだろうか。

 きっと、おもてだっては普通に接してくれるだろう。しかし、出された食べ物に何を混ぜられているか分かったものではない。バカッターな従業員だって、腐っても従業員。バカな客には分からないように何かを仕込んだり、一度床に落としたものを調理したりして「あいつアレ食ってるよwwww」みたいに陰で溜飲を下げるなんてことも想定できるわけだ。人間なんてそんなものだ。

 もう1点、同行者からの評判を失う。それは後々損だ。

 「情けは人のためならず」という言葉がある。店員さんに偉そうにクズな対応をするバカの姿を見たとする。そうすると、同行者は何かあったときにバカは自分たちにもそういう対応をするんではないかとうっすらと感じてしまう。そうなれば、社交辞令だけで一定の距離を置いた方がいい人物と位置付けてしまうだろう。

 そんなクズな対応をするバカが困っている時、距離を置いていた人たちはすすんで救いの手をさしのべてくれるだろうか。想像してほしい。まあ放置されるだろう。店員さんに優しく接するのは、誰のためでもない。自分のためにもつながっているのだ。

 店員さんに和やかに優しく接するのは、危機管理上でも有効なのだ。

マスコミ論の難しさと複雑さと心細さと

 マスコミが不要かどうかそういう議論については、論点の切り分けをしないといけない。

 まず、ジャーナリズム論と新聞・テレビ・雑誌それぞれの企業経営の観点からの経営論。これを混同している議論が多い。ジャーナリズム論を語っていたと思うと、新聞社の経営がどうのこうの。あるいは、放送局経営を取り上げていたかと思うと、結論がジャーナリズム論での提起で終わるとか。話がかみ合っていない。そりゃそうだ、表裏の関係でありながら、別次元の話だからだ。

 ジャーナリズム論の中でも、議論は分裂する。民主主義の根幹を担う役割という大義名分を源流とする、そもそもの在り方を問う議論もあれば、ねつ造がどうのこうのとか偏向報道がどうのこうのという枝葉末節を取り上げる議論もある。どれも正しいといえば正しい。

 企業経営論でも、テレビ、新聞、雑誌、ネットメディア、ジャーナリズムのカテゴリでもそれぞれ業態が違うだけに十把一絡げにできない。「大マスコミガー」では問題点が見えない。というか、それぞれ切り分けて論じるのが面倒くさいから見ようとせずにまとめて「ガー」と言っているように見える。

 さらに細かく言えば、テレビだってNHKがあるかと思えば民放があり、さらに在京キー局と地方局とは立場が違う。衛星放送だってあるし、ラジオだってある。新聞だって、朝日毎日読売みたいな全国紙があれば、地方紙だってある。業界紙だって忘れてはならない。雑誌の千差万別ぶりは説明不要だろう。ネットメディアだって堅実なところもあれば、コピペ上等のクソメディアだってある。

 マスコミに関する議論をする上で、課題と論点の抽出は難しい。逆にいうと、それだけ批判派も擁護派もそれぞれ恣意的になってしまうということだ。

 分かりやすい議論に流されないようにも、俯瞰でものを見るように心掛けたいところだ。分かりやすい議論は分かりやすいだけに、いろいろとそぎ落とした要素が多かったり、切り口の断面が一面でしかないことが多かったりする。